研究

富士急 車両近況

2012年10月30日
By muramatsu
富士急 車両近況

 元京王5000系のアイボリーカラー復活を機会に、富士急の主要車両の近況をレポートします。    山スカ色115系と並ぶ京王カラーの1000系1001F  因みに京王アイボリーの色調は、偶然にも新幹線0系のアイボリーと同色とのこと。  但し登場は京王が1963年、0系が1964年で京王の方が早い。 ◆1000系 元京王5000系をMcMc’2連ユニットとしたもので、年に計9編成18両が登場したが、内2編成は2012年3月までに廃車され、現在は7編成が在籍している。 この内ロングシート車はモハ1000形+モハ1100形で2編成、セミクロスシート車はモハ1200形+モハ1300形で5編成ある。   オリジナルカラーの4連     登場時は全編成がこの青系オリジナル塗色であったが、次第に塗色変更車が増え、現在残るのは2連3本のみとなった。   「旧富士急色」塗装だった1001F 今回京王カラーに変更された1001Fは、最近まで茶色系2色塗分けで昭和20年代の富士急色となっていた。 落ち着いた上品な色調で1000系にも良くマッチしていた。    「富士登山電車」に改装された1205F  2009年に2扉車に改造の上、水戸岡デザインの手により内外をリニューアルして特別車両となった。 普通列車として運行しているが乗車には着席券¥200が必要。 その他、赤系塗色のマッターホルン号や、青と淡緑塗分けの昭和30年代富士急色となっている編成がある。 ◆2000系                             JR東の165系「パノラマエクスプレス アルプス」を譲り受けたもので、3連2本で現在も「フジサン特急」として運転されている。 3連は片側がパノラマ形のクロ2000形、反対側は165系先頭車のクモロ2200形だが、第1編成と第2編成ではパノラマ車の向きが異なる。 乗車には乗車券の他、特急券¥300に加えパノラマシートは更に着席券¥100が必要。 登場から10年以上経過しており老朽化が進行している。まんがチックな奇抜な塗装も、そろそろセンスあるカラーにリニューアルして欲しいもの。 もっとも部品取り用の165系車両も不足しているので、延命が可能かどうか微妙になってきた。 ◆5000系 1975年に富士急のオリジナル設計で新製された最後の車両。国鉄165系と同じ車体寸法の2扉セミクロスシート車。 JRのローカル線区用としても通用する本格設計だが、製造は2連1編成のみに終わった。 1976年のローレル賞受賞車。種々のイベント塗色を経て現在はトーマスランド号としてお子様向けの塗色を施されている。 車令からみて前途は楽観できないが、そろそろ登場時の富士急カラー(青と淡緑)に戻して欲しいと思う。 ◆6000系 2012年に登場した富士急の最新車両だが、元はJR東の205系である。McM’Tc3連で、これまでに3編成が入線済み。 この内、2編成は側窓が2段窓の205系量産先行車、1編成が1段下降窓の量産車で、富士急では前者を6000番台、 後者は6500番台として区分している。入線に際し内装を水戸岡デザインによるリニューアルが施され、塗装も手を加えている。 先頭クモハにはシングルアームパンタ2基搭載。 なんとなく仙石線のような雰囲気ですね。                                               以 上
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只見線の被災状況

2011年8月8日
By 野口真弥
只見線の被災状況

詳細を述べるととても書ききれないので、概況を報告します。(取材日8/7)     只見線の会津口は宮下までの運転を再開しました。必要があってそうしているのか、やむを得ずそうなっているのかわかりませんが、どのダムも水位が大幅に下がっています。状況を把握するためには、元の水位、水害時の水位、現在の水位を意識する必要があります。     豪雨から一週間以上が経ちますが、川は茶色く濁ったままです。そして、普段はダム湖ですが水位が下がって川になっています。     第四只見川橋梁は流木の引っかかり具合から、レール面すれすれまで水位が上がったと推測されます。画像奥から会津水沼駅までは冠水したようで、線路上の土砂の片付けが進行中でした。レールが歪んでいるようですが、これは元からでしょうか。     第五は若松側の橋台が崩壊し、ガーターが下流側に転がっています。ブルーシートの奥が路盤です。周囲の田畑や居住地も所により冠水したようで、ボランティアも参加して片付け中でした。   アンダートラスを支えていた橋脚のうち、若松側(画像手前)のものの姿が見えませんので、倒壊して半分だけ見えているトラスの手前側にガーターとともに水没しているのでしょう。 ガーター1つが画像外の下流に転がっており、これは只見側のものと思われます。     木々が茶色くなっているラインが水害時の水位と思われますので、アンダートラスが半分ほど水没して水流に呑まれたのでしょう。手前にあったはずのガーターは見当たらず、水没しているのでしょう。 ここで国道も通行止めでしたので、この先には進みませんでした。美しい風景の中を再び列車が走るのを願わずにはいられません。  
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下北半島の鉄道遺構探訪(4結)大畑線

2010年9月26日
By hayashi
下北半島の鉄道遺構探訪(4結)大畑線

下北半島連載の4回目(最終回)です。 大畑線(下北交通)に関しては、保存運転が続けられていることがよく知られており、改めて紹介するまでもないかもしれませんが、近況について触れておきます。 大畑駅は、保存が行われていることもあって、ほぼ原型をとどめています。駅もバスターミナルとして使われています。市内の道路標識も「大畑駅」の表示が残っています。バス路線は大湊/下北と大畑、さらに下風呂を経て大間を結ぶ路線が主です。また、下北と野辺地を結ぶ路線もあり、地方のバスとしてはかなり健闘しています。下北の交通へのコミットメントとして、南部縦貫鉄道進出の話もあった大畑線の経営に乗り出したのが、1985年7月。その後15年の運行を続けた実績は高く評価されてよいと思います。2001年4月1日で廃止になっています。 バス交通は全国どこでも厳しいです。下北交通もがんばっているものの、大畑駅は閑散としており、数台のタクシーが時折到着するバスの客待ちをしていました。駅には係員が配置され、定期券の販売や、鉄道グッズの販売を行っていました。 線路の遺構は急速に消えつつあり、特に下北-田名部のむつ市内はかなりわかりにくくなっていますが、大畑付近ではまだ路盤が残っています。国道(旧道)を乗越える橋梁は往時のまま残されています。   下北半島とはいえないかもしれませんが、野辺地からはもう一本線路が延びていました。1997年に休止の後、2002年に廃止になった南部縦貫鉄道です。1962年に開業し、当初は千曳から分岐していましたが、東北本線の複線化にともなう経路変更で、国鉄から旧線を譲り受け、1968年から野辺地に乗り入れました。私は1974年に乗る機会がありました。 今回、天間林、千曳付近を車で走りましたが、痕跡を見つけるのは困難でした。やはり時間的制約が大きかったです。もう一度時間をたっぷりとって訪問したいです。ただ、36年前に訪問したときのイメージと異なり、道路も整備され、都市近郊のような感じになりつつあります。人口20万人以上の八戸や三沢の郊外の延長のような印象です。新幹線の七戸十和田駅が開業すればさらにこの傾向は加速するでしょう。野辺地駅の防風林は昔のままでした。 (昔の写真がスキャンできたら追記します)     参考文献寺田裕一(2007) 「下北交通大畑線」「南部縦貫鉄道」、『私鉄の廃線跡を歩くI(北海道・東北編)』 pp.142-145、pp.150-153、,JTB村田正博(2004) 「下北交通大畑線」、宮脇俊三編『鉄道廃線跡を歩くX』 pp.52-53, JTB          
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下北半島の鉄道遺構探訪(3)大畑森林鉄道

2010年9月18日
By hayashi
下北半島の鉄道遺構探訪(3)大畑森林鉄道

大畑から薬研温泉、奥薬研温泉、さらにその奥へとかつては森林鉄道が延びていました。青森県はいうまでもなく、ヒバやスギの産地で、明治時代後半から下北、津軽の両半島、白神山地などに森林鉄道網が張り巡らされていましたが、1960年代になると一斉に姿を消してしまいました。 大畑森林鉄道の遺構は、奥薬研温泉付近に残されています。「修景公園」という施設から数十メートル、大畑川を渡ったところに線路跡が残っています。まだしっかりしていて、今でもトロッコが走れそうです。 線路が残っている区間はとぎれとぎれですが、1キロ以上あります。 周辺はヒバの試験林で、森林浴のための周回コースになっています。   小さな沢を超える橋の上のレールはすでに撤去されていますが、枕木、橋桁は現役時代そのままで残されています。ただ、この区間は、当時は本線ではなく、沢筋に入っていく支線(西之股支線)の一部だったようです。 薬研温泉までの区間は川を挟んで道路の対岸になっているようですが、残念ながら時間の関係で探訪することはできませんでした。大畑川右岸の本線側から左岸の支線側に入るためには、大畑川を越えなければなりませんが、その橋梁の遺構も残っています。立ち入り禁止、かつ木々が生い茂っていますが、赤く塗られたしっかりした構造の橋梁を垣間見ることができました。 奥薬研温泉から奥にも線路は延びていたようですが、現在並行する道路は災害のために通行止めになっており、入ることはできませんでした。   参考文献 岡本憲之「大畑森林鉄道」(1997)、宮脇俊三編著(1997)『鉄道廃線跡を歩く』、JTB pp. 44-47
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戦前の鉄道資料 第1回 南満洲鐵道株式會社株券

2010年9月14日
By 柏木 誠士
戦前の鉄道資料 第1回 南満洲鐵道株式會社株券

初めての投稿となります。見苦しい点もあるかと思いますが、よろしくお願いします。 自分が祖母から引き継いだ収集品には、戦前からの品も多くありました。その中から少しずつご紹介させていただきます。 第1回目はこちら、「満鉄」こと南満洲鐵道株式會社の株券です。紙屑となった株券としては、最近は日本航空が有名ですが、それ以前はこの「満鉄」が有名だったのではないでしょうか? ※黒く塗りつぶしてある箇所は、ご先祖様の名前があります。 社紋が株券中央の地に入っており、周囲を動輪や模様が飾っています。中央下部にはかの有名な「あじあ号」も描かれています。 ちなみに当時の1円の価値は今の約400倍ほど(日本銀行のHPより)あったそうなので、左のものは今の100万円、右は20万円といったところでしょう。 払込の記入が3回で終わっています。   最後に、ある意味レア物を。 株券の払込時の領収書です。第五回とあるので、満額支払ったのでしょう。 領収書にも社紋が描かれており、まだ余裕があったころの品と見えます。 こんなものまで取ってあるとは、ご先祖様も中々の収集癖があったようです。
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下北半島の鉄道遺構探訪(2)大間線その2

2010年9月13日
By hayashi
下北半島の鉄道遺構探訪(2)大間線その2

大畑から下風呂までの間は、ところどころに朽ちかけた鉄道遺構が残されています。 まず、下風呂から10キロほど大畑によりにある赤川に残されているコンクリート橋梁です。このまま未完成の姿をとどめてきたのか、それとも残りの部分は取り壊されてしまったのかはわかりません。 赤川からさらに大畑よりにも小さな遺構が国道沿いに残されています。 赤川と大畑の間には木野部(きのぶ)という峠(山がそのまま断崖となって海の落ちる場所)があり、現在の国道は九十九折で乗り越していますが、この区間は鉄道トンネルが掘削され、かっては道路としても使用されていたそうです。時間がなくて、残念ながらこのトンネルを確認することができませんでした。 下風呂につぐ大きな遺構としてのこっているのは、大畑から3キロほどの地点にある、二枚橋橋梁で見事なアーチが連なっています。付近に防災拠点となっている広場があり、ここに駐車してゆっくり観察することができました。観光資源として活用することも可能ではないかと思います。 ただ一方で老朽化もかなり進んでいるようでした。下風呂のように完全に整備されていれば長期保存も可能でしょうが、オリジナルの姿は失われてしまいます。一方で二枚橋のようにオリジナルの姿をとどめているのは大変貴重ですが、長期的な保存や地元の方との調整が難しいでしょう。   「もし、大間線が開通していたら」という”歴史のif”を考えてみるのも楽しいです。もし、1943年頃に大間線が開通していたら、たぶん、戦後、貨物は無理としても旅客輸送ルートして、野辺地-下北-大間-函館が注目されていたでしょう。大湊線は線形がよいので、その気になれば高速運転が可能です。野辺地から1時間30分前後で大間に到着し、そこからフェリーで1時間40分となれば、青函ルートより1時間以上短縮できていたはずです。そうなると、青函トンネルの時間短縮効果の便益計算にも影響を与えていたはずで、もしかしたら青函トンネルの着工が遅れたかもしれません。もし、10年程度遅らせる効果があったら、すでに航空機時代に突入したでしょうから、青函トンネルの計画それ自体が影響を受けていたこともありえたかもしれません。またそれがなかったとしても、下北半島が今よりもメジャーな観光地になっていたのではないかと思います。 このほか、今回、薬研森林軌道と下北交通の遺構も訪問することができました。追ってご報告します。
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下北半島の鉄道遺構探訪(1)大間線その1

2010年9月13日
By hayashi
下北半島の鉄道遺構探訪(1)大間線その1

9月9日から12日にかけて、東北に行ってきました。早池峰山に登ったあと、下北半島を目指しました。今回の、鉄道関係の主目的は下北半島に散在する鉄道遺構です。 なかでも、もっとも関心があったのは大間線(大間鉄道)の遺構です。本州最北端の大間崎から北海道側の汐首崎までは17キロしかありません。大間崎からは函館山が指呼の間に望めます。このような立地から、本州と北海道の短絡ルートとして注目され、戦前に下北から大畑を経て大間に至る鉄道か計画されました。このうち下北と大畑の間18キロは大畑線として1939年に開業します(1985年下北交通に転換、2001年廃止)。残る大間(奥戸)までの25キロのうち、大畑と桑畑の間は着工されたましたが、結局、戦局の悪化に伴い、1943年に工事が中止になりました。その後、青函トンネルのルートとして検討されたこともあるようですが、結局は未成線として放置され70年近い年月が経っています。。 現在、もっとも目立つ遺構は、下風呂温泉街の中にあるアーチ橋です。戦時中の粗悪な工事で鉄筋ではなく竹筋コンクリートの構造だったといわていて、地元でも長年もてあましていたようですが、2005年に整備されて、現在では貴重な「地域資源」として活用されています。 温泉街の中のアーチ橋は、大変見事に風景に溶け込んでいます。浴衣姿の温泉客が散歩する姿も見られました。 アーチ橋の上には下風呂集落・温泉の歴史的由来や大間線の歴史的経緯を帰した説明板が設置されています。 今回、下風呂温泉で一泊しましたが、ウニやイカなど豊かな海産物の食事も楽しむことができました。   下風呂には、当然といえば当然ですが、駅が設置される予定で、その駅の跡も残されいます。 アーチ橋から30mほど大畑よりの公民館の傍らに、5mほど下の道から線路のレベルに上がる地下道が残っています。これが駅構内の階段になる予定だったようです。   現在では地元の方の通路として使われいますが、下から見上げると、上にホームがあって、もうすぐ列車が来そうな錯覚を感じます。     地図もご参照ください 大きな地図で見る    (続く)   参考文献廃線レポート「大間線」http://yamaiga.com/rail/ooma/main.html「大間鉄道」、宮脇俊三編著(1997)「鉄道廃線跡を歩くIII」pp.42-44, JTB「大間線」、森口誠之著(2001)「鉄道未成線を歩く(国鉄編)」、pp. 66-71. JTB    
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デッドウエイトカー?

2010年8月22日
By 野口真弥
デッドウエイトカー?

モンブランのふもとの街、シャモニー(フランス)からスイスにちょっと入ったところにあるエモッソン湖。ダム湖なのですが、そのダムを建設した時のケーブルカーやトロッコが観光用に運転されています。 そのケーブルカーがこれ。なんと最大89%という急勾配です。勾配が変化するところでは重力加速度が相対的に足りずケーブルが浮き上がってしまうため、架線柱のような「プーリー柱」があったりします。車体ももはや鉄道車両というより、搬器です。 201008訪問               角度にすれば37°ですが、乗ってみるとほとんど垂直に近い(ただのエレベーターか?)のではないかと感じられる勾配を上って行くと、謎の台車が現れました。ここからはこの台車を連結(ただ押し上げるだけなので、連結とは呼ばないかも)して上がっています。 なんじゃこりゃ? どうやら 上の方では勾配が緩く、上下の搬器の走行距離は同じでも垂直方向の移動距離が異なるためバランスがとれない。そこで、上にいる搬器に死重を足してバランスをとっている。   ということらしいです。 なるほど。 ちなみに、線路の横は水力発電所の導水管跡と思われます。
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TS307

2010年8月1日
By 野口真弥
TS307

京王2010系が伊予鉄に譲渡される際に、軌間を合わせるため井の頭線の1000系で使っていた台車に振り替えたものです。 1000系は1957年登場ですので、台車も同時期でしょう。
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NA318T

2010年8月1日
By 野口真弥
NA318T

18きっぷを持って漂流した末、たどり着いたのが銚子電鉄。せっかくなので仲ノ町に行きました。入場券(硬券150円)を買えば車庫内の見学も可能です。 予備知識も無く撮影してきたこの台車、家に帰ってから銘板を見るとNA318T(日車製)とあります。てっきり東急TSかと思っていたのですが、違うのですね。 来歴をネットで調べてみましたが、スタートがよくわかりません。現車のクハ2502をさかのぼると、伊予鉄クハ853←同サハ853←京王サハ2576(車籍流用で1962年日車にて新造)ということらしいのですが、見た目からしてこの台車が昭和30年代のものとは思えません。なお、伊予鉄に移った時に改軌されています。 ところで、同様に銚子にやってきたクハ2501をさかのぼると同じく1962年日車にて新造のサハ2575ですが、こちらは東急のTS321Aを履いているようです。いまいちすっきりしません。      
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