鉄研三田会の沿革



 三田会の沿革は母体となる鉄道研究会に溯らなければならない。
 1934年三田のキャンパスにあった高等部(大学予科)で数人の同志が集まり発足した。当初は鉄道施設を見学したり、機関車添乗願いを出す時の権威付けにとの思いが強かったとも伝えられている。会の名前も研究会と尤もらしく大上段に振り上げたのもその願いを込めたものだろう。学内の名称としては適当なためか、その後○○大学鉄道研究会の呼び名は常識になっている。
 戦前の趣味誌『鉄道』や『鉄道趣味』には当時の会員の寄稿が多く見られ活発な活動の様子が忍ばれる。発足時の代表者は後の文学部教授の清水潤三(故人)で、その後の三田会発足時にも初代会長となった。三田会二代目会長福島太義(故人)、三代目会長伊藤英雄(現名誉会長)も共に1934年鉄研発足時の仲間で、途中活動の中断はあるものの人の繋がりは3分の2世紀切れ目がない。
 戦時色濃厚となるにつれて鉄道は趣味の対象としては許されない時代となったが、当時の会誌 MIXED TRAINは手書きの原稿を集めて冊子として密かに回覧するという形で人目に触れず情報や意見の交換の場として大きな役割を果たしていた。鉄道趣味もアングラを余儀なくされた時代である。
 戦いに敗れ鉄道は兵器ではなくなったが食料難と混乱した社会情勢は趣味活動に踏み出すにはいま暫くの時間を要した。ようやく世情も安定し『鉄道模型趣味』が53号を『鉄道ピクトリアル』が19号を迎えた1953年(昭和28年)に慶応義塾大学鉄道研究会は戦後の空白を越えて復活をはたした。戦前の先輩会員とも顔合わせができて空白の時間も埋まり、MIXED TRAINも1955年からガリ版で復刊した。1959年には大学鉄道研究会連盟(学鉄連)の発足に中心的役割を果たした。
 1961年朝日新聞社の世界の乗り物シリ−ズの一環として翼、自動車、船に続いて鉄道を出すに当たりその編集(取材を含めて)の実質的な担当として慶応鉄研OBを指名していただき、ここにOB主導の実質的な三田会の活動が始まった。この時目に留まったのは後に『鉄道讃歌』を出版した自称「けむり・プロ」の7人の侍(当時学生)の写真の質の高さだった。
 この作業は1979年まで19年間に特集号3冊を含み22冊に及んだ。時間に余裕のある学生による取材、古くから撮りためた自前の写真からの発掘、新聞社が集めた外国の資料を他の文献との照合解読、新聞社の名による全国私鉄専用線までの克明な調査、キャプションの執筆、編集、記事の執筆など未経験の仕事を夜の時間を主体に毎年長期に亘って協力して纏め上げたことは世代を超えた結束が生まれて三田会の基盤になった。
 この仕事が収束を向かえた頃、比較的古い会員が中心で「旧性能OB会」が動きだした。電車でいえば吊りかけモ−タ−をうならせて走るややくたびれかけた世代の懇親会である。この時自前の組み立て式レイアウトを作りHOの運転会を始め現在も続いている。
 これが発展し1983年正式に三田会を名乗り『鉄研三田会』を呼称するようになった。
 1984年には創立50周年行事を主として部内だけを対象に行った。(内容は「これまでの主な活動」参照)
 1994年には60周年を迎え新たな記念事業を行い出版、写真展、模型などを通してより多く外部とのコミュニケ−ションを採ることに勤めた。出版については現時点でも継続して作業が続けられ、70周年に引き継がれそうである。(内容は「これまでの主な活動」参照)
 最近世代の傾向として紙と印刷の文化からインターネットの文化に大きく変わる曲がり角にきており、コミュニケ−ションの手段としても無視できないものと考えてこのホ−ムペ−ジを開設した。
[2000.03.04]

概要
これまでの主な活動

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